ザ・ストーン・ローゼズ(The Stone Roses)はイギリスのロックバンド。1983年にマンチェスターにて結成され、ニュー・オーダーやハッピー・マンデーズ、ザ・シャーラタンズといったバンドとともに、マッドチェスター・ムーヴメントの中心的存在として活躍。『ザ・ストーン・ローゼズ』(1989年)と『セカンド・カミング』(1994年)の2作を発表した後、1996年に解散。オアシスをはじめとするブリットポップや後の音楽シーンに多大なる影響を与えた。
解散後も幾度となく再結成が噂されてきたが、2011年10月18日に再結成することが正式発表され、2012年6月29日(金)から7月1日(日)までの3日間、マンチェスター北にあるヒートンパークにて合計22万人を集めたライブを行った。
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The Stone Roses / ザ・ストーン・ローゼスの活躍
1983年、幼馴染のイアン・ブラウン(ヴォーカル担当)とジョン・スクワイア(ギター担当)によって結成される。残りのメンバーはリズムギター担当のアンディ・カズンズとベース担当のピート・ガーナー。1984年にドラムス担当のサイモン・ウォルステンクロフトが脱退した後、新たにレニ(本名アラン・レン)がドラマーとして迎えられラインナップが固定された。
『ソー・ヤング/テル・ミー』が両A面シングルとして同年9月にThin Line Recordsからリリースされ、結果的にこれがローゼズのデビューシングルとなった。
1986年5月にカズンズが脱退し、ローゼズは4人編成となる。1987年5月にはFM Revolverよりセカンド・シングル『サリー・シナモン』を発表。これまでのセックス・ピストルズ調のノイズを轟々と響かせた曲から一転し、バーズ調のメロディ重視の楽曲へと大きな変化を遂げる。初期プレスの1000枚は完売し、全英インディーチャートで最高3位を記録した。 1987年8月にベース担当のピート・ガーナーに代わり、ベーシストのマニ(本名ゲイリー・マンフィールド)が加入し、よく知られた顔ぶれが揃う。翌年10月にはニュー・オーダーのピーター・フックによるプロデュースの下でシングル『エレファント・ストーン』をリリース。前後してシルヴァートーンとレコード契約を結び、アルバムの制作に着手する。
ファースト・アルバムとその成功
1989年の初頭にかけて、ジョン・レッキーをプロデューサーに迎えレコーディングを行う。1989年2月にはアルバムに先駆けてシングル『メイド・オブ・ストーン』をリリース。当初の反響は小さかったが、3月11日にNME誌のシングル・オブ・ザ・ウィークに選ばれる。5月には満を持して1stアルバム『ザ・ストーン・ローゼズ』を発表。全英アルバムチャート初登場47位を記録し、最高32位まで上昇。同年7月、リカット・シングル『シー・バングス・ザ・ドラムス』が全英インディーチャート1位を記録する頃にはプレスも彼らの存在を無視できなくなり、ストーン・ローゼズの名は急速に英国全土へ名が広まっていった。秋に入ると英国外でも短いツアーを行い、10月の初来日公演では東京など4会場でライヴを行った。
11月、シングル『フールズ・ゴールド/ホワット・ザ・ワールド・イズ・ウェイティング・フォー』をリリース。全英シングルチャート最高8位を記録し、初のチャートトップ10入りを果たす。年末の特集記事では多くの音楽雑誌がローゼズをベスト・ニューカマーに選出。NME誌だけでもバンド・オブ・ザ・イヤー、ベスト・ニュー・バンド、シングル・オブ・ザ・イヤー(『フールズ・ゴールド』)、アルバム・オブ・ザ・イヤー(『ストーン・ローゼズ』)に選ばれた。
5月27日にはスパイク・アイランドにて後に伝説となる野外ライヴを行う。約2万7千人の観客を動員したこのライヴは「バギー世代のウッドストック」と称され、ローゼズのキャリアのピークとなった。6月、シングル『ワン・ラヴ』をリリースし、最高4位を記録した。
1stアルバムからは5年半、最後のライヴからは4年半が経過し、英国の音楽シーンにおけるブームもマッドチェスターからブリットポップへと移り変わっていた。そんな中で、1994年12月に2ndアルバム『セカンド・カミング』が発表される。ジョン主導で制作され、レッド・ツェッペリンからの影響が色濃く伺われる本作は、全英4位、全米チャート47位を記録し、イギリスではプラチナムに認定された。
1996年10月に解散を発表、ストーン・ローゼズの歴史に終止符を打った。